3.11 あれからとあのとき | 西新宿杉江中央クリニック
2011.3.11.14.46
あれから10年
亡くなられた方々にご冥福をお祈りし、被災された方々にお見舞い申し上げます。
そして行方不明の方々が一日でも早く見つかりますように。
何年経っても胸が心がそわそわします。
その時が来ましたら黙祷させていただきます。
ここからかなり長いです。
個人的内容も強く、
お暇な方はお付き合いくださいませ。
3.9
当時首都圏で仕事をしていた。
お昼頃大きな地震があり、ニュースを見ると東北の地元だったので心配ですぐに電話をかけた。なかなか繋がらなかった。
ようやく繋がった電話で状況を聞き、
少し前から時たま地震があったので、きっとその一環で一応気をつけようと電話を切った。
3.10
朝から39度以上の熱に襲われ、ふわふわしていた。
インフルエンザではなく、有給消化も勿体無いと仕事を休む気もなかったので仕事に向かい1日仕事をした。
帰りに夜の空にみた月が異様に不気味で悪魔が笑って見える月だった。
一緒に帰った職場の仲間にも言ったが熱のせいだと言われた。
本当に悪魔が笑っていた。
夜は熱でうなされ白い球は見るし変な感じだった。
3.11
熱は解熱剤を飲んでも下がらず引き続き39度あったが仕事に向かう。
昼過ぎ仕事をサボりつつも、
ポカリスエットを買いに一階の売店にふらふらと向かうと通路のシャッターがガタガタなった。
開くのかなと思っていると、もっと大きな異常な音でシャッターが鳴った。
大きな揺れも感じ、これは危ないとシャッター脇の扉をあけ広い中庭に逃げた。
中庭から建物を見ると、肉眼でも分かるくらい建物が揺れており避雷針がグネングネンに揺れていた。
立っているのも怖くなり、しゃがんで揺れが落ち着くのを待った。
揺れが続いてても落ち着いた頃に地元の母に電話すると1発で繋がり、皆んなと居るから大丈夫と言われすぐに切れた。
暫くすると職場の皆んなが中庭に避難して来た。
同じフロアの仲間達は、重さ何百キロもするマシンが揺れで動き、
皆んな手で抑えていたらしく、挟まれて死ぬかと思ったと言っていた。
揺れに必死に戦っている最中、中庭見たら篠田さん一人だけ、いち早く避難してるんだもんビックりしたよ。と皆んなに笑われた。
すぐに帰宅命令が出たが電車は止まり帰宅困難者になった。
バスやタクシーはあてにならず。
職場の仲間達と2時間かけて歩いて帰った。途中コンビニや公衆電話には大行列が出来ており。自分の携帯の電源も切れて(昔の携帯は1日もたない)連絡や情報が入って来なかったので、人が話している情報が頼りで震度6とか東北とか声が聞こえ胸がずっとザワザワしていた。
家に帰ると物が落ちてテレビが1メートルも前に来て近所の人もお互い大丈夫だったか心配し合った。
※ここら辺から記憶が曖昧で確かではない。
家で電話を充電してもメールも電話も繋がらず、
ずっと地元が心配だったが、また何とか繋がった。
皆んな車に避難してると分かったが、星が綺麗、星が凄く綺麗と言っていた。
皆んな怯えいた。ラジオの音上げろと誰かが怒鳴り電話が切れた。
テレビのニュースでは震度ばかり報道されあまり詳しい情報はなかった。
次の日になれば情報が分かるだろと一晩ウトウトしながら寝ずにいた。
3.12
次の日テレビでは徐々に詳細が分かり、
海岸に数十人うち上がっていると言い始め、
其れが次第に何百人に変わっていった。
此れはただ事じゃない事がわかってきた。
メールも電話も引き続き通じず不安な中、
ツイッターで情報収集していた。
暫くするとまた電話が繋がった。
電気も水もガスも止まり義兄と連絡が取れないと姉が泣き叫んでいた。
母は普段心配かけないと我慢する人なのに、水も食べ物がなく心配と言っていた。
今何を食べたいのか聞くと、
「サラダせんべい」と答えた。
そんなのコンビニで売ってるじゃんすぐに届けるよ!と頭が爆発した。
其処らへんで売ってるものが、
手に入らない状態なのだと理解し、今考える其処らへんからパニックになっていた。
すぐに地元までも交通手段を、ネットの情報を駆使し探し、山形までは飛行機で飛べてその後バスで行けるのを見つけ出した。
すぐに飛行機を抑えたが13日発のしかなかった。その日のうちにお金を全額おろして近くのスーパーに行き。
ありとあらゆる食材と役に立ちそうな物を買い込んで登山用の大きなリュックとドラムバック2つに詰めた。
もちろんサラダせんべいも入れた。
3.13
昼過ぎに羽田空港に急いだ
飛行機に乗る事態久しぶりで国内線は初めてで勝手が分からずあたふたした。
チケットを発券でき出発の待合所で待つ。
その時初めて津波の映像を見た気がする。
自分の故郷、知っている所が襲われてて、すごくショックで怖かった。嘘だと思った。
家の方から電話が来てやっぱり義兄がダメかもと言われた。
ショックでうそだーうそだよ。と言っているとそっと搭乗係の女の人が寄り添ってくれた。
他にも沢山の人がショックで泣いていた。
1人ひとり飛行機会社の人はハンカチを渡したり寄り添っていた。本当に感謝である。
飛行機に乗っても重い空気だったが励ますアナウンスがあった。
山形に着いたのは日が暮れた頃で、
宿は取れたが食べる所がなく開いている小料理さんを紹介してもらい飯を食った。
ご主人1人でやっていて色々話を聞いてくれ会計時は頑張って来いとご飯代はまけてもらった。
3.14
地元に向かうバスターミナルに向かった。
チケットも無事に買え待合室では、やはり心配して地元に向かう人々が大きな荷物を持って待っていた。
逆にあっちから逃げて来た人達もいて
駄目だあっちは酷い。やっと帰ってこれたと言う言葉が痛かった。
同じバスに割り当てられた人達で待つ間、
地元の話になり、女性じゃ持てないような大きな荷物を持った人が母親が1人で居て連絡が取れなくて心配だと言う人や出張でたまたまこっちに来ていて、会社の上司と気仙沼や陸前に帰ると言っていた2人組もいた。何の情報もなくきっと大丈夫と言っていた。其々が其々の張り裂けそうな思いを持って待っていた。
1人関西弁の何の荷物も持ってない中高年の男がいて。誰に何処に会いに行くのか聞いても妙に話が噛み合わなかった。今考えると火事場泥棒?ひっとしたらと思う。
バスに揺られながら山を越えて向かう道中
泥だらけの車が反対車線を走って通り過ぎた。少しずつ現実味が帯びて来た。
2時間くらい揺られ着くと駅でお互い頑張ろとバスを各々降りた。関西弁のおじさんは知らない間に姿を消していた。
親戚も含め避難している街側にある家まで歩いて向かった。
その道中、小さな男の子を片手に抱いたお父さんが必死な顔で爆発した!原発爆発した!と走って寄って来た。
知らない人だが子供が凄く怖がって不安そうな強ばった顔をしていたので、
何も知らないのに咄嗟に大丈夫ですよ。
問題ない爆発ですよと子供の為に嘘をついた。
多分お父さんも混乱していたのか、
そうかな大丈夫かなと出てきたアパートの方に向かっていった。
皆んなが混乱していた。兎に角必要なのは正確な情報だった。
家に着く前から道中姉も心配して、たまたま同じようにこっちに向かって来てくれてて顔が見えた瞬間安心した。
家に着くと持ってきたありったけの食料を渡した。皆んな顔が疲れていた。
海の方を見るとヘリコプターが飛び回り煙が所々上がってモヤっていた。
3.11の日は昼からドラマを見る為に、沿岸部に嫁いだ姉たちがたまたま街側に来ていた。本当にタイミングだった。
義兄や義兄父の話は出さないように言われた。
それでも探したくてNHKの人探しやツイッターで情報を拡散してもらった。
その日から片付けと自転車であっちこっちに食料を求めて走り回った。
街の方に行けば、弁当まで買える所があり何時間も並んでゲットした。
その際も知らない人、皆んな声を掛け合った。辛そうな人は話してもらって励まし合い、情報も大切なので皆んな近況を話し合った。
水もガスも電気もないと、避難所も考えたが本当に全てを無くした人がいて、時に殺伐としていて治安が良くないと聞いてやめた。
ここまで来る途中もガードレールにもたれた動かない人を何人も見た。怖くて声がかけられなかったと震えながらおばさんが言っていたが、良いんだよ良いんだよと皆んなで励ました。
噂ではもっと大きな地震が来る。
この前のが前震だ等の噂が流れていた。
原発の話は不思議と情報がなくあまり入ってなかった。兎に角、食料と水が出る所と電気の充電が出来る所と次の地震の情報だった。
食料は何とかかき集めて日々どうにかなった。ただ街中で大根や野菜を6000円とかで売る所が出てきて腹が立った。きっと車で遠くから運んで来たのだろうが、思わずこんな時にふざけんなと怒鳴ってしまった。
本当にああいうのは嫌いだ。
数日後
突然義兄と連絡がついた。
義兄も迫り来る波から仕事仲間と車を捨てて走って逃げた。
腰まで浸かり3人いたのに気が付いたら声がしなくなり、自分1人になっていたらしく。
その後も義兄父の為に泳いで家までたどり着いたと聞いた。冷たくて、すごく眠くなり寝たら死んでしまうと、足を何度も刺したと言っていた。夜はずっと助けてと声が聞こえてたが助けられなかったと言った。
駄目!助けに行っちゃ駄目!絶対に駄目!助けに行かなかったのが正解!
生きて!生きていて!本当に良かった!と伝えた。
沿岸部の家は2階まで水がきて、
これ以上水が上がったら助からないと義兄父も覚悟していたらしい。
水の力は本当に怖い。
数日後、
義兄と合流した。
人はお風呂に入らないと体温調節が出来なくなり常に寒くなる。
肌が黒くなり表情が強ばり心も沈んでいく。
ついつまらない事で悪い方に考えてしまう。
ガスはまだだが、たまたま電気でお湯を沸かすやつだったので、電気が通じてお風呂に入れた。ただ水もあまり使わないように言われていた。
本当に少しのシャワーだったが、
皆んな一気に顔に紅が指し気分も明るくなった。
(今でも気分が沈むとサウナやお風呂に入る。お風呂は本当に大切だ。体も心も温かくしてくれる。現在温浴施設もコロナ禍で閉店が相次いでるが、何かあった時に収容出来るし、お風呂は体と心の衛生面を健全に保つ。その事を考えて国が一定数は確保した方がいい。)
沿岸部の家の様子見と片付けをしようとなったが、
大きな道路の真ん中に大きな船や大きな貯水缶や色々ありすぎて断念した。
本当に其れを見た時「で、どうしろと?」となった。最初の片付けの一歩を踏み込んだ人はすごいと思う。
道路で車も通ってないのに、
信号待ちしていると何の感情もないのに、
常にツラーと涙が垂れて自分が少し変なのがわかった。全く悲しい感情も何もないのに流れていた。
車も通ってないのに暫く動けなかった。
数日後、
遠くから車が来るのがわかった。
自衛隊の車は何回か見たことがあるので、
其れかな?何だろうと思っていると、
佐川急便と出光のトラックが通り過ぎた。
一気に気持ちが前向きになった。
自分達だけでどうにかしないと思っていたが
何か動き始めた気がした。
道路が車一台通れるようになり、片付けに行ったが前の人の家が良くわからない形になっていて船やボードがアパートとかに突っ込んでいた。
姉の家だけカサを高くしていたので少しはマシだった。
泥を救い畳を出して水で洗い流し片付けは本当に大変だと感じた。
其れでも地域の知らない人も顔を合わせればご苦労さまお疲れ様と自然と声をかけ励まし合った。
4月になり。
少し状況が落ち着き?
父に本当に助かった。
今回の事で分かった皆んなが同じ所にいると皆んな駄目になる。
お前は東京に居ろと言われ一回東京に帰った。高速バスだったと思う。
着いてすぐに電気が付いている事、
コンビニがやっている事、マクドナルドがやっている事に感動した。
自分はと我慢してた分お腹がはち切れるほど食べた。
それから家にお金を送らなければと金回りの良い仕事を探した。
まさに美容外科、特に包茎とか特殊で人がやりたがらない仕事はお金の匂いがした。面接もうまくいき真面目に仕事をした。
給料や夏のボーナスで、テレビや色々買ってやろうと思ったが堅実な会社で、あてにしていた金額は出なかった。本当に以前の仕事の方が貰えるくらいだった。
自分の計算違いに頭に来て泣きながら、副社長に電話するとお金を貸してくれた。
そのお金は全て送ったが今の中央には恩がある。
先に配属された川崎院で仕事をしていたが、
同じ地元や福島から東京に避難して来て包茎治療に来てくれる人達が沢山いた。
あの時、風呂に入れず不衛生に感じ、此れは治さないと皆んな同じ体験して来てくれた。
その際に、原発の近くに住んでた人も何人かいて、本当にバスが急にきて何も持たずに強制的に乗せられたと話していた。
こんな何人も亡くなっている中、悪いけどペットも駄目で辛かったと言っていた。
ペットは家族です。同じです。と励まし合った。
仕事の関連業者様も皆んな協力しくれて仕事も上手くいくようになった。
その後も色々あったが状態が次第に落ち着いていった。
後から、あの人が亡くなっていたとか、
あの品のいいご婦人が震災の影響で酒で駄目になったとか色々後から分かった。
学生の時に使っていた体育館が遺体安置所になっているのを見た時は、あの日たまたま帰っていたら。。と考えてしまった。
あの日を経験して
明日は必ず来るのではない。
1日を大切にし必死に生きよう。
そして人の為に生きようと強く決心した。
あの時、見た光景はあまりにショックだった。
ただ皆んな自分の家族や家の事もあるだろうに動ける人は人の為に動いていた。
たまたまお金目的(実際は普通)で入った中央の美容外科は、実際に人の為になる仕事だ。
患者様が悩んで頼って来てくれ治療して喜んでくれる。
中央には、あの時お金を貸してくれた恩もある。
自分みたいな人間が少しでも人の役に立てるならとあれから10年。いま新宿院にいる。